実家が精米と精麦業でした
- ご実家では昔、精米所を開いていたとお聞きしました。
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昭和13年から昭和40年頃まで、旧大川町の富田にあった実家で精米と精麦業を営んでいました。米や麦を農協で扱うようになってからは徐々に作業量が減り、後に店を畳むのですが、開業した当初はとても繁盛していたようです。
店の中には精米用の機械と精麦用の機械が何基もあって、休むことなく稼働していました。当時「猫車」と呼んでいた木製の手押し車に米や麦をのせた農家の方が、しょっちゅう訪れていました。2人いた使用人も、荷台のしっかりとした自転車で毎日、慌ただしく集配に出掛けていましたよ。
- 精米と精麦をする機械は違うのですね。
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動力が電気モーターで、動力を伝えるのが平ベルトというのは同じでしたが、機械の構造はまるで違いました。精米機にはロールやタンクなどがあって、米を循環させながら精米する仕組みですが、精麦機はL字クランクのような状態で繋げられた何本かの杵が、土間に置かれた石臼を交互に叩く仕組みです。
あと、「粉臼」と呼んでいた米や蕎麦を粉にする粉挽き用の石臼もありました。こちらは、蕎麦屋に行けば今でも見掛ける回転式の石臼です。その石臼で粉にしたのは米と蕎麦だけで、小麦は挽いていませんでした。詳しくは分かりませんが、小麦の製粉ができない石臼だったのでしょう。
豆腐屋さんが製麺機でうどんを作っていた
- 製麺は当時、どちらでしていましたか?
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近所にあった豆腐屋さんです。そこに製麺機がありました。細長い1.2メートルくらいの高さの機械で、生地をロールで板状にして、ハサミで麺の状態に切ってくれるという簡単な仕組みでした。板状になった出てきた生地を折り返し、再びロールに通すといった作業は人力でした。
小麦粉を持って行くと、うどんの麺を作ってもらえました。もちろん、加工賃は必要でしたが、小麦や小麦粉がなくてもお金で麺を買うこともできました。ちなみに、真っ白な今のうどんとは違って、昔のうどんは黄色みがかっていましたね。うどんを食べる時はその豆腐屋を利用したので、子どもの頃に家でうどんを打ったことはありません。
住まいの衣替えの際にうどんを食べた
- 小さい頃(昭和20年代)、どんな時に家でうどんを食べていましたか?
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必ず食べたのは年越しの時くらいです。あとは、普段のご飯でしかありません。年越しうどんも含めて、内容はしっぽくうどんばかりでした。
外で食べる機会があったのは、親戚や近所の家が新しくなった時です。お祝いの席には必ず、うどんが用意されていました。お風呂の改装や家の解体の手伝いに行った時もご馳走になりましたね。理由はよく分かりませんが、家が建て変わる折にうどんを口にしました。
- 当時、近所にうどんが食べられる店はありましたか?
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なかったはずです。三本松の駅前の食堂でメニューにうどんがあったかどうか…といったところでしょう。「うどんを食べた」という話を聞くのは、高松に行った人からだけでした。
個人的にも小さい頃、店でうどんを食べた想い出はありません。通っていた高校(志度商業、現在の志度高校)の売店で食べたのが初めてです。立ち食いで掻き込んだ、花鰹とネギだけが入ったうどんでしたが(笑)。