10日に一度はうどん汁
- 綾川町にはうどん店がたくさん存在しますが、昔から現在のような状況だったのですか?/dt>
- 今ほど多くはなかったけど、戦前から店はあったな。麺を作ってあちこちの家へ売りに行く製麺所や、店の中で食べさせてくれるところもあった。そやけど、小さい頃に店のうどんを食べたことはない。自分とこで作ってたからな。
- 家ではうどんを頻繁に作っていましたか?
- 10日に一度くらい、晩御飯で作った。あとは市や祭り、法事がある時くらいかな。「お客」ゆうて、近所の人なんかが家に集まる時にも作ったで。
- 晩御飯のうどんというのは?
- うどん汁や。いわゆる打ち込みうどんやな。それとよく似た料理で、うどんの替わりに団子が入った団子汁もよう作った。砕け米を使ってな。砕け米いうたら、精米の時に下に落ちたくず米や。それを挽いてできた粉で団子を作るんや。
- うどんは誰が作っていましたか?
- 両親やけど、10歳頃から自分も見よう見まねで作るようになって、だんだんうもう(上手く)なったで。だから近所でお客があると、朝早うからうどん作りに駆り出されたし、だいぶ経ってからやけど地元の小学校へうどんの作り方を教えに行ったこともある。
普段と特別な日で麺の作り方が違う
- うどん作りがお上手だったんですね。お客の時にも晩御飯の献立と同じうどん汁を作るのですか?
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紋日や大勢の人が集まる時は、かけや生醤油で食べとった。だから、麺の作り方もうどん汁の場合とは違う。足踏みもしたし、釜で湯がいたし。井戸水で麺を締めて、お椀で量を量って一玉ずつもろ蓋に並べた。
うどん汁は小麦と水を混ぜたものを練って、団子にして、それを包丁で切ったらそのまま鍋の中に入れるだけやから。塩も加えんし。あと、夏場はうどん汁の具にどじょうが加わってどじょう汁になった。田んぼのそばの井手で捕まえたどじょうを入れとったんやけどな。
15キロの小麦で10キロの小麦粉
- 小麦粉はどこから調達していましたか?
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家は農家やったから、畑で作った小麦がなんぼでもあった。その小麦を「水車」で粉にしてもろた。水車ゆうのは川沿いにあった水車小屋のことで、米や小麦を挽いてくれたとこや。
小麦を一斗、4貫。今で言うと15キロを水車に持って行くと2貫700、10キロの小麦粉がもらえた。真っ白で綺麗な小麦粉やったで。小麦全体の量が粉になると7割弱ぐらいになったけど、残り全部、水車の儲けになったわけではない。小麦に付いていた皮の量もあるからな。実際には2割くらいが水車の儲けで、その上にほんの少しお金もとられた。
- 当時、(旧綾上町に)水車小屋は何軒くらいありましたか?
- 3軒くらいあった。それと水車じゃなくて、発動機を使って挽くところもなんぼかあった。多分、農協でも発動機で挽いとったんとちゃうかな。トントンゆう大きな音をさせとったから。昭和25年頃には発動機がモーターに切り替わったけどな。