第二話
小野うどん・後編
聞き手・文:羽野茂雄
お話:三代目小野修(昭和12年3月5日生まれ)千恵子(昭和13年8月6日生まれ)ご夫妻
四代目小野繁(昭和38年7月31日生まれ)ひとみ(昭和40年7月15日生まれ)ご夫妻
<昭和中期〜昭和の終わりまで>
ーー お父さん夫妻が三代目になるわけですが、店を継いだのはいつごろですか?
- 修
- 私は23歳で隣村の勝間から養子に来て千恵子と結婚しました。琴参(バス)に勤めていましたが、合間合間に隆雄からうどん作りを教えてもらいました。昭和30年ごろ、うどんは12円か13円やったと思います。かまぼこが載ったら(かやくうどん)15円だった。琴参の初任給が3,800円のころです。当時、革靴が5,000円、背広が8,000円で、月給では買えんかった。会社を辞めてからは畑をしたり豚を飼ったりしていましたが、昭和50年に隆雄の跡を継いでうどん屋を始めました。
ーー 当時から店でうどんを食べる人は多かったのですか?
- 修
- 昭和50年代にはうどん店もいっぱいできて、昼飯に店でうどんを食う習慣ができてきました。高瀬でも渡辺や讃岐亭ができとりました。昭和50年代の終わりごろから善通寺と三島川之江間の高速道路の工事が本格化して、ダンプの運転手の利用が増えて忙しい時期を迎えました。1車いくらで働く運転手は食ったら休む間もなくすぐに出ていくので効率も良かった。体力を使う仕事なので、いっぱい食べてくれるし。
ーー 食料品店や食堂への玉卸しもやりましたか?
- 修
- 商店などへの玉卸しは、初代からやってなかったみたいですね。ただ、運動会や病院の給食や工場の残業食用のうどん玉は届けていました。昔からお世話になっている白井病院へは今も届けています。患者さんにもできるだけ、うどん屋で食べる味に近いものを食べてもらいたいと考えています。
ーー 頑固なまでに手作業にこだわっていますね。
- 修
- うちでは、手作業以外考えられんですね。師匠でもある父の隆雄から「機械でするんやったら、うどん屋せんでええわ」ときつく言われていました。粉の段階から全部手でこねて、練って、むしろに包んで足で踏んで鍛えていました。衛生面から、むしろからゴザ、今はナイロンに変わってきましたけど。体力勝負ですね。
- 繁
- 近くに麺機で有名な讃岐麺機さんもあるのにねえ(笑)。ちょっとだけ研修に行ったこともありますけど。
- 千恵子
- 今は店の奥で機械で打って、お客様に見える切るとこだけ手でやっているところも多いけど、うちは初代から全部手作りでっせ。ま、私やのうて男衆の仕事やけど。
ーー 戦後から昭和40年くらいにかけて、高瀬近辺にはどんなうどん屋がありましたか?
- 修
- 新名の熊本食堂、勝間の近藤の氷屋(へいまはん)、麺の卸しは安藤製麺などがあった。安藤製麺は息子さんの代になって、今はうどん店の讃岐亭になっています。私は知らんけど、勝間の坪ノ内神社の下に浦島屋という店があったそうです。喜井は中華そばやったかな。うどんもあったんかな。
ーー 小野うどんの店舗は開業から変わりましたか?
- 修
-
店の横の道は市道竹田線言うんやけど、昭和58年3月にできました。首山まで伸びる市道田井-本谷線も同時に供用開始になりました。麻から新名の方へ行くのは高瀬川沿いの県道23、24号ばっかしやったですけど、この道ができて、だいぶ流れが変わりましたね。それで、交通量も増えてきて納屋の店舗も手狭になってきたので、現在の店舗は平成元年に新築しました。14席から36席に2倍半以上に拡大しました。大勢が一度にお客できる座敷も作り、駐車場も広くとりました。天ぷらも出来合いでなくて、自分とこで作るようになりました。
座敷には、讃岐うどんの作り方の絵や、お客様からいただいた提灯があります。提灯には「頼」「隆」「修」「繁」の4文字が入っていますが、四代の名前の頭文字です。うれしいプレゼントで大事にしています。5人目は誰の名前が入るんかな。
<平成〜現在>
ーー 今のように流行りだしたのはいつごろからですか?
- 修
- 平成になってから、讃岐うどんブームでお客様が定着してきたような気がします。それこそ、田尾さんの仕掛けや皆さんの宣伝が徐々に効いてきたんだと思います。長蛇の列ができるというような混雑はありませんが、支持してくれるお客様が着実に増えてきたなと感謝しています。
ーー 繁さんの経歴は?
- 繁
- 高校出てしばらく親父と同じ琴参バスに勤めて、お遍路さんを案内する添乗員を務めていましたが、22歳で四代目を継ぎました。私はおじいちゃん子で、いつもおじいちゃんと寝ていたそうです。おじいちゃんから寝物語にうどんを教わりました。父にも踏んだり、伸ばしたり、一緒に作業をする中で打ち方を教えてもらいました。中学生のころにはもう自分でうどんが打てていたような気がします。
ーー 今のお店のメニューや営業時間を教えてください。
- 繁
- うどんは、かけ、しょうゆ、湯だめ、釜揚げ、ざる、冷やしの6種類です。天ぷらは夏のアスパラ、春のタケノコなど、季節のものを含めて常時12〜13種類用意しています。朝9時から午後4時か5時くらいまで営業しています。第1、3、5日曜日が休みです。父(修)が早朝から店に入って寿司めしなどの準備をしてくれるので助かります。
- 修
- おどろいたら(目が覚めたら)、特にすることもないけんな。無意識に店に入っとる。やはり、ここが一番落ち着くんや。
- 繁
- 出汁などベースになるものは変わりませんが、味は少しずつ進化させながら小野うどんの個性を守っています。
- 千恵子
- うどんは出汁やで、やっぱり。それと力もいるで。伸ばしたり切ったりするのもえらいんで。息子が打ったうどんはほんまにしっかりしとる。
- 繁
- まだどこかに親父でなかったら出せん味があります。年季には勝てんですね。
ーー 奥さんの仕事も頼りになりますね。
- 繁
- 新店舗ができた平成元年に観音寺から嫁に来てくれました。今では、寿司や天ぷらづくりからうどんの釜入れ、釜出し、そして会計など重要な仕事を全部こなしてくれるエースです。丁寧に作る天ぷらと5つ玉のそろばんでやる会計がお客様に好評です。
ーー 壁にようけ色紙がありますが、みんなお店に来た人たちですか?
- 繁
- 皆さん、ここで食べて喜んでくれた方々です。気に入らんかったらサインやくれんやろし(笑)。100枚以上はありますね。地元出身の落語家の桂こけ枝さんや、大林信彦監督、五代夏子さん、大川栄策さん、泉ピン子さん、野茂英雄さん、羽鳥慎一さん、コロッケさんなどもいます。ジャズの山下洋輔さんも来て食べてくれました。
ーー 百年続いた小野うどんの素晴らしさ、守りたい伝統は?
- 繁
-
長いことやってきただけとしか思っていませんでしたが、「すごいことやで」って、いろいろな人に言われて気が付きました。明治43年は、とうに廃止になった宇高連絡船が就航した年だそうです。どう考えても1世紀というのは大変な期間ですね。純粋に、初代から先代までの先祖に感謝します。大変な時期もあったみたいですが、みんな乗り越えてきてくれました。
うどん屋は、体力はもちろん、お客様相手に気を使う仕事です。けど、100年続いた小野うどんの味を守り続けたい。少なくとも、自分ができる間は、これ以外の仕事はないなと思っています。
- 千恵子
- とにかく、今までやってきてくれた人に感謝ですわ。先祖がおったけん、うどんだけで孫も大学行けるようになった。ありがたいことですわ。孫は丸髙(香川県立丸亀高等学校)では野球部で甲子園行けて、大学は明治に行って。孫娘も高校でバレーボール頑張ってますわ。
ーー なんと、明治大学ですか。おばあちゃん、ほんまによかったですね。大変人気のある素晴らしい大学ですよ。では最後に、何かあれば一言。
- 繁
- 讃岐うどんと言えば、全国でも通じるようになったのがうれしいですね。讃岐うどんはどの店がうまいのかとかよく聞かれますが、その人の味覚やきん一概には言えませんね。西讃と高松にしても地域性よりは店によりけりですから、同じうどんでも全部違う。どの店もうまくて、同じ味はない。同じなのは「安い、早い、うまい」ことです。みんなが必死で努力してオリジナリティーを出しているから、お客様が飽きんと来てくれるのだと思います。そこが面白いところです。
- ひとみ
-
主婦は家のことと店のことを両方せないかんから大変です。けど、20年以上やっていると、自分がせないかんこともわかってきます。年末などはやることがいっぱいありますが、家より店が優先になるのは商売してるから仕方ないことです。
うれしいのは、中学生のころから来てくれていたお客様が大人になって嫁さんや子どもさんを連れてきてくれたり、大阪へ嫁に行った人が里帰りの時に親子で寄ってくれたりすることです。小野うどんの味が、お客様にも受け継がれていることが何よりもうれしいです。ご覧のように「うどんの申し子」のような太っ腹で愉快な主人ですから、我が家は笑いの絶えない家になっています。お蔭さまで、ありがたいことです。
三豊市
手打うどん 小野うどん
おのうどん
〒767-0001
三豊市高瀬町上高瀬1953-1
開業日 明治43年
営業中
現在の形態 セルフ
(2015年7月現在)