第二話
竹清・中編
聞き手:メタボ柿原
お話:竹清の大将・竹田啓二さんと、女将の竹田恵美さん
<昭和58年〜平成>
大将代替わりから半熟卵天ぷらが出来るまで
ーー お二人はどこで知り合ったんですか?
- 大将
- 僕が東かがわ市の大内町から高松へ出てきて、ここの隣にあった酒屋を手伝っている時に、いつも竹清へうどんを食べに来てたんや。そしたらある日、うどんとチクワの天ぷらを頼んだら、サラダが付いてきた(笑)。
- 女将
- サラダで胃袋をギュッと掴んだ(笑)。
- 大将
- デートに行く時、いつも弁当を作ってくれてな。それも二段弁当や(笑)。九州まで行った時も、ラーメン食べんと弁当食べて帰ってきた(笑)。それで清一さん(先代)が二人の中を早めたというか、まあ娘が可愛かったんかなぁ〜。「はよ結婚せい」いうて(笑)。29歳の時に結婚したんや。
ーー それですぐうどんを打つようになったんですか?
- 大将
- 結婚して最初は、仕事が休みの日に玉取りを手伝うぐらいやったけど、親父さんが「うどん打ちせんか?」言うてくれたんで店に入ったんや。昭和59年の3月か4月に店に入って、9月にはもう一人でうどん打ってた。先代からは「塩がなんぼで水がなんぼや」いうくらいで細かいことは何も教えてはもらってないんやけど、(小さい声で)最初の半年は給料もろとらんのや(笑)。
- 女将
- もうパッと任してしもたんや(笑)。
- 大将
- そうやね。粉は同じ日清製粉やけど、しばらくして少し変えたのと、4〜5年してからは出来だちのうどんを出すようにしたんや。やっぱり出来だちが美味しいしね。僕は「ちょと待ってな」と、いうのが好きでね。「2〜3分で新しいのができるけんな」いうて、お客さんに待ってもらいよった。店を開けるときも、まだ釜にうどんが入っているうちに暖簾を出してね。今では100%出来だちを出すようにしてる。
ーー その当時はどんな天ぷらを揚げてたんですか?
- 女将
- じゃがいもとか玉ねぎとか。じゃがいもが人気だったわ。なんでも揚げたわよ。卵の天ぷらもしてたけど、今と違って黄身が固い普通の茹で卵の天ぷらやった。
- 大将
- そのうち「黄身が柔らかいのが美味しい」ということになって、だんだん柔らかくしていったんやけど、最初はなかなかうまく半熟の天ぷらにならなくて、いろいろ研究した。半熟でも黄身がトロッとならんと美味しくないけんね。その「トロッと」がなかなかできんかった。今でも半熟具合が気に入らんで何百個も捨ててしまうことがあるんや。
ーー 半熟卵天はその頃から人気メニューになったんですか?
- 大将
- いや、最初は近所の生協でパック入りの卵を10パックか15パックぐらい買ってきて細々やってたんやけど、田尾さんがラジオで宣伝してくれてから爆発した。
ーー それが半熟卵天の竹清の始まりですね。何年ぐらいのことですか?
- 大将
- 半熟卵天を始めたんは、香保里(娘さん)が幼稚園の頃やから、昭和62年か63年頃かな。
ーー そうですね。私も昭和63年頃には食べた記憶があります。
- 女将
- 大失敗の事件があってね。香保里の幼稚園のバザーでフライドポテトを揚げるように頼まれて、冷凍のフライドポテトを大量にうちのフライヤーに入れたら、水分が多くて、うちのフライヤーは下半分が水だから、油が沸いてしまったので下の水と攪拌してしまって近寄れないぐらい暴れてしまった。あれからフライドポテトは二度と揚げてない(笑)。