香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市飯田町・昭和14年生まれの男性の証言

半夏と市と祭りにうどんと寿司を必ず食べていた

(取材・文:

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  • vol: 7
  • 2015.07.08

半夏と市と祭りにうどんと寿司を必ず食べていた

どんな時にうどんを食べていましたか?
半夏(はんげ)が終わったら食べよった。田植えが終わったら讃岐の人はうどんを食べよった。それから4月の市と10月の祭りもうどんと寿司を食べよった。農家が一番忙しいのは田植えなんや。半夏は7月2日、それまでに田植えを済ませとく。それからうどんを食べる。昔は「おうどん」と呼んでいた。半夏はうどんを食べる日じゃ。だけん、寿司とうどんのことを「祭り」と言う。今でも「今日晩ご飯なんな?」と聞いて、「田舎の祭りや」と答える。それはうどんと寿司という意味。
そのうどんは家で作るんですか?
昔は家で作るのが当たり前だった。今みたいなうどん玉は売ってなかった。

昭和20年代は、「製粉所」で生うどんや乾麺が売られていた

いつ頃からうどん玉が売られるようになったのでしょうか?
いつだったか、恐らく昭和30年頃に鬼無に霜野(しもの)製麺所ができて、このあたりの商店に配達し始めたと思う。各店に卸し始めた。河野のまっちゃんく(かつて近所にあった河野商店の通称)でうどん玉を売っとった。値段はなんぼだったか、10円か15円くらいだったんじゃないか。
それ以前、俺が子どもの頃、昭和20年代には製粉所があった。このあたりは飯田町の山本と鬼無町の下河、鬼無駅近くの北山。この近所で記憶にある製粉所はその3つ。どこも水(川)の近く。そこが生のうどんを作りよった。箱に詰めて、乾かしたうどん、そうめんみたいなんも売っとった。
一般の家庭が買いに行くところですか?
買いに行く。俺が子どもの頃、「山本勘次のところへうどんを買いに行ってこい」と親に頼まれて買いに行きよった。山本製粉所は戦前には水車があって、それを動力にうどんを練っとった。戦後はさすがにモーターだったけど、水車の名残で「水車の山本小屋」とみんな呼んどったんや。
そこで生うどんを買うてきて、家で親が大きな釜で茹でる。家で湯がいて玉にする。男ばかりの兄弟だったけん、20人分くらいまとめて買いよった。お金は自分で払った記憶がないなぁ。親が払いよったんやと思う。家で食べるのは湯がく分を買いよった。人に贈るときは日保ちのする、段ボールに詰めた乾麺を買いよった。
家で作ったり、製粉所へ買いに行ったりしていたということですか?
そうそう。家でうどん粉を練って作ったり、勘ちゃん(山本製粉所)のところで湯がく前の生うどんを買うてきたり。山本製粉所は、元々は小麦粉が本業。百姓が麦を勘ちゃんところへ持って行く。それを機械にかけてうどん粉にしよった。うどん粉を作る傍ら、水入れて練って乾かしてうどんを作って売るようになった。だから、家で作るうどんのメリケン粉も勘ちゃんところで買いよった。
うちくは、水入れておばあさんが練って、こしらえる。それでしっぽくうどんとかを作っていた。うちのばぁちゃんが作ったうどんは、へりに太いんが残る。子どもの頃はその太いのにあたるんが楽しみだった。もちろん機械で切るわけちがうし、ばぁちゃんは年寄りやけん、手が震うて、うどんの幅が広くなったり太くなったりする。これがまた旨い。そりゃ、うどんはどんどん旨くなったけど、今思たらまた違うおいしさがあったのぉ。

30年頃から茹でたうどんを商店に卸す製麺所が台頭、製粉所は廃業へ追い込まれる

家で作るうどんは何うどんでしたか?
しっぽくやのぉ。祭りと大晦日はしっぽく。大根、人参、お揚げ、里芋が具材。甘辛いダシ。それと中味噌と白味噌を合わせたダシの打ち込みうどん。打ち込みうどんは普段に食べる。祭りのときには、しっぽくうどんと寿司を食べよった。それと、「揚げもん」があった。レンコンと芋とかを輪切りにして、天ぷらにする。衣に色粉をつける黄色い天ぷら。田舎の祭りには必ずあった。
製粉所があったのはいつ頃まであったのですか?
山本製粉は、俺より4つ上、昭和11年生まれの2代目が昭和32年頃まではしよったと思う。儲からんようになって商売を辞めて他に働きに行くようになった。
なぜ儲けにならなくなったのですか?
儲けにならんわ、そら、霜野みたいなんができたけん。近くの店でもうどん玉が手に入るようになったし。それに製粉所のうどんは旨ないんや。今考えたら、霜野のうどんは旨いと思ったわ。時代が変わっていったということや。みんな霜野で買うようになった。俺の記憶では鬼無の霜野、天ぷらのコジマ。霜野ができた昭和30年あたりから時代が変わっていったように思う。下河もそのくらいになくなったと思う。俺が中学校へ行っていた頃(~昭和29年)は、下河も山本ももちろんあった。高校では、どうだったかな。
霜野は製麺所だったのですよね?
霜野は商店に卸す製麺所。玉売りもしていた。昔は小さなスーパーがこのあたりにたくさんあった。後に製麺所で食べるようにもなったけど、できた当初はなかった。

製麺所に食べに来たご近所さんから「生醤油うどん」と「セルフ」が始まった?!

うどんの専門店はまだなかったのですか?
今みたいにうどん単独の店が増えたんは昭和50年以降やと思うで。それまでは食堂のメニューにうどんがあったんや。食堂のうどんは、そこでは作っていない。霜野みたいな製麺所が作ったうどん玉を朝、配達しよった。
そう言えば、25歳の時(昭和39年)に、おじいさんとおばあさんがうどんを作りよるところ、製麺所やわ、そこへ行って、醤油かけて食べよった。商店へ卸しているところ。霜野みたいなところ。机やテーブルはなかったな。まぁ涼み台みたいなんはあった。そこへ座って、丼出してくれて、「醤油でも掛けて食べまい、今できたてやけん」ゆうた。それが生醤油うどんの始まりじゃないかと思う。家で醤油かけて食べることはなかった。ネギは田んぼから採ってきてくれて置いとった。俺は仕事で通るところの休憩所だったけど、近所の人は来よったわ。三木町の氷上にあった串田(くしだ)という製麺所。食堂でもなんでもない。のれんもない。今はもうないんちゃうかな。
「生醤油うどん」という呼び名もなかった?
ないわ。「醤油かけて食べまい」言われただけで他のダシやない。昭和30年代後半頃から、製麺所が来た人にうどんを食べさせた、それが今のセルフうどんやの始まりやろうな。御厩にも同じような製麺所があった。各地で霜野みたいな製麺所があって、地元の人がうどんを食べに行くようになって、そのうちのれんをかけてテーブルや椅子おいて商売するようになったんやと思う。
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