- 小さい頃(昭和20年代)に自宅でうどんを打っていましたか?
- 母や祖母が打っていました。うどんだけではなくて、そばもですが。今はもう使っていませんが、麺棒や麺台、石臼などがまだ納屋に残っています。
- 石臼があるということは…。
- 家の畑で収穫した小麦を挽いて小麦粉にしていました。小麦以外にも米や大豆、野菜も栽培していて、料理に使っていただけではなく、醤油や味噌といった調味料や、豆腐、揚げなども作っていました。ほぼ自給自足の生活でしたね。
お客さんが来たときにバラ寿司とセットで
- どんなときにうどんを作っていましたか?
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お祭りのときや、親戚などのお客さんが家にやって来るときに作っていました。バラ寿司も一緒に準備しましたね。うどんとバラ寿司は必ずセットでした。
家にはかまどが3つありましたが、一つが御飯を炊く用。もう一つがうどんを湯がく用。残る一つが、うどんのダシを作る用だったのを憶えています。
近くの海で獲れた小魚をダシの材料に
- うどんのダシには、どんな材料を使っていましたか?
- 自家製の醤油と、近所の八百屋で買っていたイリコと昆布を使っていました。けれど、イリコと昆布の代わりに、近くの海で獲った小魚をダシにすることもありましたよ。
- ダシに使う魚介類まで、自給自足のケースがあったのですね。
- しっかりとした味が出ていましたよ。夏場は常温のダシをうどんにかけて食べていましたが、熱くしたときと変わらず美味しかったです。またダシの代わりに、薄めた醤油をかけて食べることもありました。
具が入るのは年越しのときだけ
- 具は何か入りましたか?
- ネギやゴマといった薬味を入れるだけでしたね。ただ、年越しそばならぬ〝年越しうどん〟のときだけ、大根やニンジン、サトイモなどが入るしっぽくになりました。もちろん、その野菜は家で作っていた物です。
- うどん作りを手伝うことはありましたか?
- 直接、自分がうどんを作ったり、手伝ったりしたことはありません。農作物の収穫はよく手伝いましたが。あの頃の小学校は農繁期になると、家の手伝いで早退することができました。
- 家ではいつ頃までうどんを打っていましたか?
- 中学生か高校生の頃(昭和30年代後半)まででしょうか。それくらいまで、家でうどんを食べてましたので。
- 当時、屋島東町にうどん屋はありましたか?
- 生まれたときから安徳神社(高松市屋島東町)の近くに住んでいますが、うどん屋はおろか、製麺所すらなかったと思います。店と呼べるような場所も少なく、八百屋やよろず屋が2〜3軒あったくらいです。
初めて店でうどんを食べたのは友達と一緒に入ったトキワ街の「きみや」
- では、初めてお店でうどんを食べたのは?
- 高校に通い始めてから(昭和36年)のことです。放課後、友達と食べに行ったのが初めてでした。それまで家族でうどんを食べに行くことはありませんでしたし、また通っていた高松女子商業(現:高松中央高校)には、うどんが食べられる食堂のような施設がありませんでした。
- 友達と初めてうどんを食べに行った店の名前は?
- 「きみや」という名前のお店です。トキワ街(高松常磐町商店街)を、コトデン瓦町駅側から入ってすぐの右手にちょっとした地下街があって、その一角に店がありました。
- 「きみや」ではどんなうどんを食べましたか?
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確か「きつねうどん」を食べました。ずっと家のうどんで育ってきたので、最初は「ダシが薄いな。でも、店のうどんってこんなもんなのかな」と感じました。後から思えば、家のダシが濃かったのですが(笑)。
でも、友達と一緒に食べるのがとても嬉しくて、正直、味なんてどうでもよかったんです。私の青春時代の大切な想い出になっています。