香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市屋島西町・昭和14年生まれの男性の証言

中学生の時は毎日のように食べた醤油うどん

(取材・文:

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  • vol: 6
  • 2015.07.08

中学生の時は毎日のように食べた醤油うどん

3歳(昭和17年)から高校を卒業する18歳(昭和32年)まで、高松市の多賀町や鶴屋町、松福町に転々と住んでいました。その頃はよく家でうどんを食べていましたね。特に中学生の時は学校に給食がなかったので、昼食は家に戻ってうどんを食べていました。ほぼ毎日です。

そして母親から出されるうどんも毎日同じで、醤油うどんのみ。醤油は今のようなまろやかなダシ醤油ではなくて、料理全般に使っていた普通の醤油です。それを麺とネギ、かまぼこだけが入った丼にかけて食べていました。

八百屋のせいろに並べられていた麺は1玉10円

麺は自宅の近くにあった万屋も兼ねる八百屋から買っていました。店は杣場川の手前、今の四国ガス高松支店がある通り沿いにあったと記憶しています。僕もお遣いでその店によく麺を買いに行きました。家から鍋を持参して。ナイロン袋のようなものがない時代だったので、鍋に麺を入れて持って帰っていました。
麺は当時1玉10円でしたが、その店で麺は作っていなかったと思います。ただ、麺の入ったせいろが何段にも並べられていました。よく売れていたんでしょうね。

石清尾八幡宮の秋祭りの時だけ、平天の天ぷらうどんに

そんな風にしながら普段は醤油うどんを食べていたのですが、お祭り(石清尾八幡宮の例大祭・10月)の時だけは内容が変わりました。天ぷらうどんになったんです! 天ぷらといっても揚げ物ではなく、練り物の方ですが。いわゆる平天ですね。それを温かいかけうどんに切って入れました。平天も先ほどの店から買っていましたよ。

それと、祭りの時は天ぷらうどんと一緒に必ず、ばら寿司も母親が作ってくれました。ばら寿司の具は至って普通の内容でしたが、祭りの時の食事がうどんとばら寿司の組み合わせというのは、周りの家庭でも多かったと思います。

街に出掛けたときは「トラヤ」できつねうどんを

家族で街に出掛けた時は、よく片原町商店街とライオン通商店街の角にあった「トラヤ」(※)という食堂に寄ってうどんを食べました。トラヤは今の大衆食堂、レストランのような店でしょうか。

うどんはきつねうどんや肉うどん、天ぷらうどんなどがありましたが、僕はいつも好んできつねを食べていました。甘めの鰹ダシで、お揚げも甘くて、麺は太かった! 美味しかったなぁ。当時の値段は一杯70~80円くらいだったと思います。

高校(高松商業高校)に入ると(昭和30年)、グラウンドのすぐ北側、今の高松第一小学校の向かいにあったお好み焼き屋で昼に焼きうどんをよく食べました。高校に学食がなかったこともあって、その店は生徒で大賑わいでしたね。高校周辺には他にもうどんが食べられる食堂がいくつかありましたが、専門店はなかったんじゃないでしょうか。

高校を卒業してから大阪で就職したのですが、そこで初めて食べたうどんが高松のうどんとまるっきり違い戸惑ったことも、うどんにまつわるいい思い出です。(笑)

※坂出にあったニュートラヤの前身? 当時、トラヤのオーナーの兄が琴平の虎屋旅館を経営していたとのことです。

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