<寒いときはうどん、暑いときは素麺>
- 昔(昭和20年代)は祖母が作ってくれたしっぽくうどんや打ち込みうどんを晩によく食べました。寒くなると、一週間に一回は必ず食卓に並んだほどです。小麦粉を捏ねたり生地を足で踏んだりと、麺に仕上げるのはかなり重労働だったようですが、いつも祖母が一人で作ってくれました。自分を含めて周りの家族は一度も手伝ったことはありません。ちなみに、夏の暑いときにはうどんではなく、素麺を食べました。
<精米料、製粉料は現物で>
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うどんを作る道具は、家にあるもので間に合わせていました。とはいえ、麺を打つ台や延ばす棒は、それなりにしっかりとした専用の物が釜の横に備え付けられていたことを記憶しています。
小麦や大根、里芋といった材料も、家の畑で作った物ばかりです。ただ、うどんは小麦を挽いて小麦粉にしないと作れません。そのため、当時から「屋島銀座」と呼ばれている地元の古い商店街にあった精米所へ小麦を持って行き、粉にしてもらいました。
自分もそのお店へ何度か訪れたことがあります。お米の精米でもよく利用していましたが、精米や製粉をしてもらう際に手数料がいくら必要だったかは知りません。その場でお金のやりとりをしている記憶がありませんので、手数料の代わりに持って行った米や小麦を少し取られていたのではないでしょうか。近所には農協もありましたが、当時の農協では小麦を小麦粉にしてもらえませんでした。お店への配慮かと思われます。
<家のうどんは、お客さんには出さないのが礼儀!?>
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祖母のうどんは、大人になって嫁ぐまでずっと食べました。普段の食事としてではなく、祭りや年末年始といった何かの節目のときにも作ってくれたことがあります。けれども、法事や田植えのときにうどんが並ぶことはありませんでした。どうやら「家で作った粗末なうどんを、お客さんにはみっともなくて出せない」という気持ちが働いていたようで、人が集まる行事の際は遠慮したようです。
そんな控えめなところもある祖母のうどんですが、自分にとってはとても印象に残っている一杯です。もっとも、近所でうどんを食べられる店は当時、ありませんでしたが。