さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

ゴールデンウィークの山越の行列(2006年)。

【山越うどん(綾歌郡綾川町)】
讃岐うどん巡りブームの“総本山”「山越」の歴史は、思いも寄らぬ形態の「田舎の飲食業」から始まっていた

(取材・文:

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  • vol: 5
  • 2016.06.13

第三話

山越うどん・後編

聞き手・文:田尾和俊
お話:山越の二代目大将、奥さん

<昭和50年代〜60年代>

庭兼客席の奥にあるお土産売場。担当しているのは北海道から帰ってきたお姉さん。

庭兼客席の奥にあるお土産売場。担当しているのは北海道から帰ってきたお姉さん。

昭和40年代の山越は「玉売り」専門の黎明期。営業努力と機械化で少しずつ製麺業が確立されてきたが、まだまだ貧しい田舎の製麺屋さんだったようです。それが昭和50年代に入って、少しずつ生活基盤が整い始めてきました。

50年代の山越はいろんなものが落ち着いてきた時代。でも、食べに来るお客さんはまだ1日に20人ぐらい。

ーー では、ようやく昭和50年代です。

奥さん
50年代はちょっとずつ売上が伸びてきて、まあいろんなものが落ち着いてきたという感じかな。
大将
一般の人の玉買いが増えてきたんや。法事とかに大口のうどんの注文が入るようになってきた。みんな、もう自分の家でうどん打ったりしなくなったのもあるんやろな。ここら辺は、法事のうどんも結構自分の家で打ちよったから。
奥さん
お店もどんどん増えよった時代やから、卸先も増えていってな。それで思い切って母屋を建てたのが昭和57年。建てた途端に税務署に入られてしんどかったけど、全然儲かってない時よ。食べに来るお客さんもあんまりおらんかったし。

ーー 僕が山越さんに初めて来たのが平成3年(1991)だったと思うけど、その時におばあちゃんが「食べに来るお客さんは1日に15人か20人や」って言ってました。

奥さん
そうやなあ。あの頃、お客さんが30人ぐらい来たら「今日は30人も来た!」って言いよったのを覚えとるから、田尾さんが来て本に書いてくれるまではそんな感じだった。最初はおダシも出してなかったと思うけど、平成に入った頃はおダシを作ってたんかな。それでもまだ食べに来る人は、1日に20人ぐらいやったんやなあ。

ーー 昭和50年代から60年代にかけては、山越にはそんなに大きな動きはなかったみたいですね。

大将
そうやなあ。平成に入った頃にステンレスの釜を入れて…
奥さん
伸一(長男・三代目)が20歳ぐらいの時に大阪から帰って来てな、あの子が昭和45年生まれだから、平成2年頃かな。ちょうど田尾さんが来てくれた頃や。

ーー 僕が初めて山越に来た平成3年には、もう山さん(三代目)が店にいましたから、店に出始めてすぐだったかもしれませんね。ちなみに、山さんは最初から跡を継ぐ予定だったんですか?

奥さん
いや、私らは「どっちでもええよ」って言ってたんよ。
大将
最初は継ぐ気はなかったと思うわ。高校出てブラブラしよったから、ちょっと私が怒っていっぺんケンカしてな(笑)。それがいつだったか、私が釣りをしよったらひょこっと後ろに来て「うどんやるきん」言うて来て、それから一緒にやり始めた。そばをやめたのもその頃だったかな。
奥さん
そうそう。そばのアレルギーが出始めて、そのうち「そばが食べられんのですけど、そばも一緒に茹でてますか?」言うお客さんが来たりして。その頃、そばもうどんと同じミキサーで練り込んでて、茹でるのも同じ釜で茹でてたから、ミキサーからそば粉を取るのも、茹で湯をいちいち替えるのも大変だったし。それで伸一が「もうそばをやめよう。うどん一本でいけるわ」言うて、そばをやめることにした。
大将
だから、うどんはまあ、細々だけど平成に入った頃にはそれなりに調子が良かったんやろな。

<平成〜ブーム到来>

ゴールデンウィークの山越の行列(平成18年)。

ゴールデンウィークの山越の行列(平成18年)。

そして、いよいよ山越の大ブレイクへの助走が始まる。きっかけはもちろん、『タウン情報かがわ』の「讃岐うどん針の穴場探訪記/ゲリラうどん通ごっこ」に見つかってしまったこと(笑)。平成3年(1991)11月に掲載された当時の記述を再掲しましょう。

「すだれをくぐると、ブロックの塀に囲われた製麺所が現れた。時は午後2時過ぎ。…(店に入ると)入り口すぐの一角にテーブルが数個置かれている。中にはおばあちゃん一人がいた。『すんません、食べられますか?』おばあちゃんは、こんな時間にネクタイ姿の、それも初めて見る客が来たことをいぶかしがる風をちょっと見せながら、『はいはい』と答えた。我々は壁の貼り紙を素早く見つけ、『2玉下さい』と注文。おばあちゃんは、セイロに残ったうどん玉を2つ、どんぶりに入れてくれる。ズッシリと重量感。ナベのふたを取ってダシをかける。テーブルに七味とネギ…」

「1週間後、再び山越に行く。今度は午前10時30分。山越は忙しくうどんを作っていた。ご主人、奥さん、近所の手伝いの人、そしておばあちゃん。…そうこうしているうちに、配達に出ていた三代目(息子)が帰ってきた。…昼前になると、お客さんが次々に入ってきた。向かいの駐在所から駐在さんも来た。あれ? 駐在所から自分のどんぶり持って来とる。うどん入れて、ダシかけて、あ、駐在所へ持って帰って食べるんだ」

「釜玉」の発祥!

ーー ではいよいよ平成3年、山越伝説の始まりです(笑)。

奥さん
田尾さんに見つかった(笑)。

ーー あの時、怪しい製麺所型うどん屋を発掘してたら、「羽床(綾南町)の山越のうどんがうまい!」いう情報が何軒も入ってきたんです。それでさっそく探検に行って探訪記を書いたんですけど、実はその中に、山越の代名詞となった「釜玉」が出てこないんですよね(笑)。あれはどういう発祥だったんですか?

奥さん
その頃はまだ釜玉、釜玉、言いよらんかったんかな。「釜玉」はもう、ほんまに偶然でなあ。平成の初め頃はまだお客さんが1日に20人や30人ぐらいしか来よらんかったと思うけど、すぐ向かいの駐在さんや郵便局の局長さんとかが常連さんで食べに来てくれてたんよ。それから綾上町の役場の人も来始めた。そしたら、役場の井手上(いでうえ)さんいう人が生卵を持って来て、それを丼に入れて「釜揚げの麺を取って入れてくれ」って。それでお醤油をかけて食べるん。それも毎日毎日、卵を1個だけ持って来て(笑)。

ーー 役場の井手上さんが発祥ですか! 

奥さん
そうです。それで井手上さんがあんまり毎日食べるけん「そんなにおいしいんかなあ」と思って私もやってみたら、おいしかったんよ(笑)。それでメニューにしようということになったん。メニューにした最初は「卵入り釜揚げ」とか「釜揚げ卵入り」とか「釜揚げ卵うどん」とか、紙が汚れて書き換えるたびに私がいろんな書き方しよったんやけど、だんだん注文が多くなってきてな。その頃には息子が釜をしてくれよって、私が注文を聞いて息子に言うんやけど、早よ言わないかんから私が「釜玉」って言い始めて、そのまま「釜玉」になったんよ。それがなあ、こんなに広がるんやったらもっとオシャレな名前にしとったらよかった(笑)。

ーー いやー、抜群のネーミングですよ。サッカーのチーム名になるぐらいやから(笑)。けど、僕、てっきり駐在さんが最初だと思ってて、デマ流してました(笑)。

奥さん
駐在さんは竹田さんいうてな、丼持って来よったけど、卵は持って来よらなんだと思う。でも、駐在さんは優しい人だったなあ。近くの丸善工業から大勢食べに来てくれ始めた時に、女の子たちが来てもうちに座るところがないやろ。そしたら駐在さんが駐在所の玄関のテーブルとか置いてるところに入れてくれて、座って食べられるようにしてくれよったんよ。女の子は立って食べるのはつらいやろ言うて。

ーー いい話ですねえ。今だったらすぐに誰かが通報しそうですけど(笑)、そういうコミュニケーションを微笑ましく許すぐらいの日常の方が絶対穏やかですよね。

奥さん
ほんと、いい駐在さんやった。いろいろ助けてもらって、ほんと感謝しとります。

ブーム到来!

1990年代後半、ブームの走りに最初に借りたガソリンスタンド跡の駐車場。

1990年代後半、ブームの走りに最初に借りたガソリンスタンド跡の駐車場。

ーー 平成3年(1991)に『タウン情報かがわ』の「ゲリラうどん通ごっこ」に載って、平成5年(1993)年に『恐るべきさぬきうどん』に載りました。

奥さん
あれからやな。あれから全国の雑誌やテレビが来始めて、食べに来るお客さんがガーッと増え始めた。
大将
私は日記をつけよったんだけど、平成2〜3年頃には食べに来る人が1日20人、30人だったのが、平成6〜7年頃には400人、500人、600人いうて増えて来てな。
奥さん
県外からもどんどん車で来るし、毎日行列ができて。そんなの初めてだから、とにかくご近所に迷惑をかけるんが辛かった。でも、やっぱりお客さんには来てもらいたいし、もうどなんしたらええんやろか思ってた頃に、ちょうどそこのガソリンスタンドが閉めることになったんよ。そしたら、私の仲のいいお友達が上手に仲介してくれて、そこを駐車場で借りられるようになったん。その時に仲介してくれたお友達が今もパートさんでレジしてくれよるんよ。
平成15年(2003)に田んぼを借りて増設した3番目の駐車場。

平成15年(2003)に田んぼを借りて増設した3番目の駐車場。

ーー ああ、山越さんの一番近くの4〜5台停められる駐車場ですね。

奥さん
そうそう。でも、それでも全然足りんで、1日に700人も来るようになってどうしようもなくなった時に、駐在さんが「近所の田んぼを借りたらどうや?」って言うてくれてな。「田んぼは売ってくれんけど、貸すんだったらしてくれるかもしれん」言うからお願いに行ったら、「ええよ」言うて貸してくれた。
大将
それが平成10年(1998)じゃ。それから4年して、平成14年(2002)年に今の庭になっとるところを買うて。そこを最初は駐車場にしとったんやけど、下が赤土だったから車が入ってきたら土埃が舞うんよ。それでもお客さんはどんどん増えて、埃が舞うし手狭にもなって、平成15年(2003)にもう一枚広い田んぼを借りて駐車場にした時に、こっちは駐車場をやめて庭にし始めたんや。
奥さん
あの頃はどんどん変わりよったな。伸一が庭いじりができる言うんで、庭に石を置いたり木を植えたり客席を作ったり。車イスで入れるトイレを作ったり、お土産売場も作ったり…そのたびに借金は増えたけど(笑)、お客さんがたくさん来てくれよったから頑張って返していこうと思って。

「ブームのおかげで家族が一緒に仕事ができて、幸せです」

ーー お姉ちゃん(長女)が帰って来たのもその頃でしたか?

大将
平成10年やの。最初に田んぼを借りて駐車場にした年だった。
奥さん
伸一が結婚した時に、「私がおったらお嫁さんもやりにくいだろうから」言うて、北海道に行ってたん。北海道に叔父がいて、それを頼って。だからもう一生帰って来んと思ってたんだけど、ちょうど税務署が入って落ち込んでる時に電話でいろいろ話をしよったら、私の声が落ちとったんかどうか知らんけど、あとで聞いたら「自殺でもしたらいかんと思って、ものすごく心配して急いで身の回りを仕舞いして帰って来た」って言いよった。

ーー わあ、いい子ですねえ。僕が言うのも何ですが(笑)。

奥さん
それぐらいで自殺するようなお母さんやないのにね(笑)。それで帰って来て今は経理をしてくれよるけん、すごく助かってる。それと、娘が帰って来た時に北海道で職場の先輩だった人も一緒についてきて、そのまま15年以上、今もずっとうちで働いてくれてるんよ。ほんとに、いろんなご縁があって、いろんな人に助けてもらって。伸一のお嫁さんも、結婚する時に向こうのお父さんが「うちの子はお母さんみたいに元気でないから、お母さんみたいに仕事はできんと思いますが…」っておっしゃったから「そんなこと全然構いませんよ。仕事をしてもらおうと思って結婚してもらうわけでないから」いうて言うたんは覚えとるけど、お嫁さんも快く手伝ってくれていて、ほんとによかったなあと思ってます。こうやって家族も一緒にやっていけるんもみんな、田尾さんが作ってくれたブームのおかげです。

ーー いやいや、僕らはきっかけを作っただけで、あとは全国の雑誌やテレビや映画『UDON』の本広監督や讃岐うどんファンのみんなが一緒におもしろがってくれてこんなになったんだと思います。僕なんかもう、今度来た時に天ぷら1個黙って乗せてくれるだけで十分です(笑)。

奥さん
じゃあ、それにおうどん2筋ぐらいようけ入れとくわ(笑)。でも、田尾さんの本はおもしろかったなあ。私もあれを読んで、山内さんとこに食べに行ったんよ。山をうねうね上がって「この先、どないなるんやろ?」と思ったら、パッと開けて山小屋みたいなお店が出てきて。「わー、本に書いとる通りや!」って思った。何か、すごいおもしろいなあって思って。ああいうのがブーム作るんやなあ。

ーー ありがとうございます。じゃあ、今度来たら手土産も一つ持たせてもらって(笑)。でも、ブームをここまで牽引したのは絶対に「おもしろくて楽しくておいしい店」の皆さんですから、あとはその功労者の大将と奥さんが体の元気なうちに引退して、世界十周旅行とかに行って人生を楽しんでくれたらとてもうれしい(笑)。

奥さん
行けたらええけどなあ。まだ借金ようけあるし(笑)。でも、やっぱり私は仕事をしながらお客さんから元気をもらいよるんやろか。「仕事を辞めたらお母さん、10歳ぐらいいっぺんに歳とりそうな気がするわ」ってよく言われるんよ。一日の仕事が終わってみんなでご飯食べよる時に、遅くまでおったお客さんが私を見て「お母さん、店に立っとる時と全然雰囲気が違うな」って言われるんよ。それから、私が母屋の方に帰る後ろ姿を見た従業員さんに「もう、杖を持たせてあげないかんみたいな格好で歩きよる」って言われる(笑)。そんなん聞いたら、やっぱり「お客さんが来てくれて元気でおれるんやなあ」って思う。

ーー 確かにそうですねえ。何か奥さん、昔以上につやつやしてきてますもん。

(大将、小さくうなずく)

奥さん
お父さん、そんな無理してうなずかんの(笑)。

ブームは“高値安定期”

ーー では最後に、お店で感じる最近の傾向なんかをちょっと教えて下さい。

大将
そうやなあ。あの高速が1000円になった時がピークやったな。あれがいつやった?

ーー 平成21〜22年(2009〜2010)です。その前、平成18年(2006)に映画『UDON』が公開された。

大将
あの頃はものすごかったけど、高速の1000円が終わったらいっぺんにお客さんが減ってきて。
奥さん
このまま減って行ったらうちの経営どうなるんやろ思って心配してたんやけど、ここのところはだいぶ落ち着いてきて、今年はちょっと増えて来たかな。

ーー 結局、映画と高速1000円の時は「おまけ」みたいなもんやったんでしょうね。

大将
そうやな。そう思ったら、最初のブームの後、高いところで定着したいう感じかな。

奥さん
最近は韓国のお客さんがすごく増えてきたよ。今日も10人以上来てたんちゃうかな。台湾や香港からもよう来てくれる。うちに2年ぐらい前から中国語がわかる台湾の子が働いてるんやけど、中国人かなあと思うお客さんに「中国の方ですか?」って聞いたら、すぐに「香港!」って言うんよ(笑)。何か香港の人はプライドが高いんやなあって。でも、中国人のお客さんはそれほどでもないけどな。

ーー でも今は中国人の「爆買い」ブームですから、そのうち今度は中国人のお客さんが押し寄せてくるかもしれませんね。

奥さん
でも、おうどんの「爆食」はしてくれんからねえ(笑)。1人10玉とか食べてくれたらええんやけど(笑)。

約30年前の山越ファミリー。

約30年前の山越ファミリー。左から初代女将のお婆ちゃん、二代目女将の奥さん、三代目(山さん)、二代目大将。この写真の大将は現在の山さんと同い年で、顔もそっくり(笑)。

山越の店頭(平成26年)。

綾歌郡綾川町

山越うどん

やまごえうどん

〒761-2207

綾歌郡綾川町羽床上602-2

開業日 1941年7月

営業中

現在の形態 製麺所

http://www.yamagoeudon.com/

(2015年7月現在)

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