持ち回りで開いた冬の娯楽「お座」でうどんを
- 子どもの頃にうどんを食べていましたか?
- 食べていました。特に秋から冬にかけて食べることが多かったです。暖かい時分は、うどんではなくて素麺でしたが、寒い時期になると、よく打ち込みうどんを作ったからです。それと、普段の食事としてではなく、何かの行事がある時にもうどんを作っていましたが、その行事が秋から冬に集中していたからです。
- どのような行事ですか?
-
お祭りと「お座」です。お座というのは10月〜2月か3月頃にかけて行われていた、「お寄り」とも呼ばれる法事のような宴会のような集まりです。集まるのは「同業」と呼ばれている近所の人たちで、各家々が持ち回りで当番をして開いていました。
お座に集まるのは、だいたい10家族くらいです。当時はテレビもなく、また田舎の冬は娯楽らしい娯楽もなかったので、ご馳走を食べながらみんなで話をするのが何よりの楽しみでした。
- お座を開く日や順番はどのように決めていたのですか?
- お座があるときには、お坊さんを招いて法話も行われていましたので、誰かの命日に合わせることが多かったようです。それぞれの家の命日が近い場合は、まとめて一緒にお座を開きました。
- お座で出るうどんは?
- お座のときはかけうどんでした。他には炊いた鯖やほうれん草のおひたし、バラ寿司、赤豆(金時)などが並びました。ただ、当番の家(の人)が料理を作りますので、おかずの内容はその都度、変わりました。そこには、おかずの豪華さを競い合う見栄のようなものもありましたね(笑)。
農協でうどんを作っていた
- 当時、ご自宅でうどんを用意するときは生地から作っていましたか?
- いえ、作っていません。農協でうどんの玉を買っていました。「写真館」と呼ばれている、庵治でロケが行われた映画『世界の中心で、愛をさけぶ』の資料館があるのですが、その場所が昔は農協でした。
- 農協でうどんの麺を作っていたのですか?
-
毎日ではありませんが、機械で作っていました。作るときのカチャカチャという機械の音も憶えています。うどんは生うどんと干しうどんの2種類がありましたが、生うどんの方が美味しかったですね(笑)。
麺はうどん以外にも、今のようにしなやかで細くはない素麺(笑)や、たまに中華麺も並びました。素麺や中華麺はどうだったのか忘れましたが、うどんは通帳を使って手に入れていました。
- 通帳と言いますと…?
- 農協に小麦粉を預けると、その量を記録した通帳が渡されたんです。そしてうどんを農協で手に入れる毎に、通帳に記録されている数字が差し引かれました。
- もらったうどんの玉数や重さから、含まれている小麦の量が計算されてその分、通帳から引かれたワケですね。通帳があれば、お金は必要なかったのですか?
- いえ、加工賃はかかりました。20〜30円くらいだったと思います。どれくらいの玉数をもらってその金額だったのかは失念しましたが。
- 農協に預ける小麦はどこで手に入れていましたか?
- 家は半農半漁の暮らしだったので、畑で小麦を作っていました。作った小麦のうち、どれくらいの量を農協に預けていたのかは分かりません。
- 農協のうどんは、通帳を持っていなくても手に入れることは出来ましたか?
- 農家ではなくても買えたはずです。
- ちなみに、うどんのダシもやはり漁で獲った魚を使っていましたか?
- もちろんです。でも、今のうどんのダシのようにイリコやカツオといった高級な魚は使っていませんよ(笑)。この辺りの海で獲れたトラハゼやメバルなんかを湯がいて、干して、焼いてから使っていました。
漁師だけが味わえた釜揚げうどん!?
- 農協以外でうどんを作っている店はありましたか?
- 「北」さんという製麺所がありました。当時、店のご主人の娘さんと知り合いでしたが、学校に行く前にうどん作りを手伝っているという話を聞いたことがあります。庵治にあった食堂や、役場にも麺を卸していました。
- その製麺所でうどんを食べることが出来ましたか?
- 店のご主人の知り合いだった漁師さんは、早朝の漁を終えてからよく利用していたようです。ただ、店内にテーブルや椅子は置いていなかったので、基本的にはお客さんは食べることが出来ませんでした。
- 製麺所にはダシも用意されていたのですか?
-
もちろん、ありません。ただ漁師さんにとっては、ダシうんぬんよりも釜から上がったばかりの麺というのが醍醐味だったらしく、ご主人に醤油を借りて食べていました。
ちなみに「北」さんは、庵治の峠にあったうどん屋「味呂(あじろ)」さんの前身です。「味呂」さんももう店を閉めてしまいましたが。