香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市城東町・昭和29年生まれの男性の証言

実は嫁の姉のご主人が「山越」の旦那さんでして(笑)

(取材・文:

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  • vol: 127
  • 2016.02.04

綾川で冠婚葬祭があるとき、同行さんが作ったうどんを食べた

 子どもの頃にうどんを食べたご記憶は?
 小学5年生(昭和40年)まで城東町(高松市)に住んでいましたが、家でうどんを食べたことはありません。綾川にあった母の里を訪れたときに、うどんを食べることができたくらいです。
母の里へは、法事や葬式、お通夜、結婚式などで訪れることが多かったです。当時は葬儀場やセレモニーホールのような施設がありませんでしたから、冠婚葬祭を母屋で行っていました。その際に頂くお膳の中に、うどんがあったのです。 そのうどんを作っていたのは、「同行(どうぎょう)さん」と呼ばれる近所の人たちです。冠婚葬祭があると当家の人は何かと忙しいので、準備などを周りが手伝う習慣がありました。うどん入りのお膳は、列席者の人にはもちろん、手伝ってくれたお礼に同行さんにも召し上がってもらうのが慣例でした。

 当時の城東町には、うどん店や製麺所はありましたか?
 まったく記憶にありません。店はなかったと思います。当時の城東町で印象に残っていることと言えば…。港の海を挟んで互いに向かい合っている東浜恵美須神社と北濱恵比寿神社があるのですが、お祭りのときだけその二つの神社を結ぶ吊り橋が海上に掛かったこと。それと、小学3~4年生の時(昭和40年頃)に特殊浴場と呼ばれる施設が初めて誕生したことぐらいです(笑)。

土日の昼御飯は、製麺所の出来立てうどん

高松でうどんを食べたのはいつ頃からですか?
 小学5年生の時に扇町(高松市)に引っ越したのですが、家の近くに製麺所があって、その存在をきっかけに我が家でもうどんを食べるようになりました。店の名前は憶えていませんが、場所は高松信用金庫の西通町支店の南東側、道を挟んですぐのところです。土日になると、昼御飯用のうどんを買いに自分もその製麺所へよく行きました。タイミングがよければ、釜から上がって水で締めたばかりの麺を持って帰ることが出来ましたよ。注文すると、店の人が麺をナイロン袋に入れてくれて、それを持って帰りました。

家ではどのようにしてうどんを食べていましたか?
 かけや湯だめ、冷やし、生醤油と、割と色んなパターンで食べていました。ただ、ダシには既製の調味料を使っていましたが(笑)。それに八百屋で買ってきたエビの練り天を添えて一緒に食べることが多かったです。全体がピンク色をした見た目に鮮やかな平天でした。
小学校のとき、給食でうどんが出たことはありましたか?
 扇町(高松市)に引っ越してからも新塩屋町小学校(高松市/2010年に閉校)に通いましたが、小学校の6年間でうどんが給食に出たことは一度もありませんでした。初めて外でうどんを食べたのは、中学生の頃(昭和40年代前半)です。友達と美術館(高松市紺屋町)の西側にあった「かな泉」に行って、一杯50円もしなかったかけうどんを食べたのが最初でした。「てぼ」を使って自分で麺を湯せんしたり、蛇口を開いて丼にダシを注いだりするセルフのスタイルは当時、とても新鮮でしたね。薬味に「花がつお」があったのも忘れられません。

他にうどんに関するエピソードはございますか?
 取材の趣旨に合わない話かも知れませんが、実は嫁の姉の旦那さんが、かまたまでお馴染みの「山越」のご主人なんです。そして大阪に息子さんがおられるのですが、お歳暮にはいつも冷凍うどんを送っています。とても喜んでくれますよ(笑)。ちなみに山越に行ってうどんを食べるときは、親族ですが一般客と同じように行列に加わります(笑)。

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