離乳食に母が咀嚼したうどんを食べさせられていた
- 子どもの頃に、うどんを食べる機会はありましたか?
- 食べる機会があった、というレベルではありません。晩御飯はほぼ毎日、うどんでした(笑)。一杯のかけうどんと白飯、おかずが何か一品。その3つが我が家のいつもの献立でした。
- うどん中心の晩御飯は何歳頃から?
- 生まれる前からだと聞いていますよ(笑)。というのも、父は木材加工会社の社長で工場が自宅のすぐ横にあり、残業する従業員に母が毎晩うどんを作って出していました。それで、母の手間を考えて、我が家の晩御飯もうどん中心になった次第です。お陰で離乳食からうどんでした(笑)。
- 離乳食がうどんですか!?。
- そうなんですよ。母が口の中で咀嚼したうどんを食べさせられていたんです(笑)。酷いもんですよ。1~2歳の頃だったと思いますが、すでに物心がついていましたので嫌で嫌で仕方がありませんでした(笑)。
藤村製麺所の思い出
- 麺はどのように段取りしていましたか?
- 家は築地小学校(高松市/2010年に閉校)の前にありましたが、近くに藤村さんという名前の製麺所があって、いつもそこで買っていました。もちろん、自分も藤村さんへお遣いに行ったことがあります。ボウルと布巾を持参して、ボウルに麺を入れてもらったら、その上に布巾を掛けて家に持って帰りました。店で買うことが多かったですが、麺がたくさん必要なときは配達もしてくれました。 余談ですが、藤村さんところの大釜の燃料には、うちのおがくずを使っていたんですよ。材木を加工する際に余ったおがくずです。確か、小学3年生の時(昭和38年)にガスに切り替わったと思いますが、それまではうちのおがくずで麺を湯がいていました。父が無料で譲っていたと思います。
実は、私は藤村さんの息子さんと同級生だったんです。学校も同じでしたから、麺を買う用事がなくても製麺所へよく遊びに行っていました。だからよく憶えているんです。
小学5年生か6年生の時には、自動で麺を切る機械も導入されましたよ。ローラーが二つあってその間に打って延ばした生地を入れると、下から暖簾状に麺が出てくるんです。割と大きな機械でしたよ。その機械が店に入る前は、ご主人が包丁とまな板のような添え木を使って手で生地を切っていました。
- 店の中でうどんを食べることはできましたか?
- それはできなかったと思います。藤村製麺所ももうありませんが、今も忘れられない家族生活の思い出です。
- うどん中心の晩御飯はいつまで続きましたか?
- 家に併設していた工場が香西(高松市)に移転になる、中学3年生(昭和44年)の頃まで続きました。移転すると、従業員の夜食用のうどんを準備する必要がなくなりましたから。母にとってはよかったのか、悪かったのか(笑)。