高松市内にもあったトコロテン式製麺機?!
- 子どもの頃(昭和20年代)、家でうどんを食べていましたか?
- 家は農家でしたが、畑で作った野菜を入れたしっぽくうどんをときどき食べました。食べると身体が温まるので、冬場に食卓に並ぶことが多かったですね。
- うどんの麺も自宅で作っていましたか?
- 麺は作りませんでした。家で作った小麦を家で粉に挽いて、近所にあった「山下」さんというお店に持って行くと、麺にしてくれたんです。だからいつもその店を利用していました。そば粉も持って行くと麺にしてくれました。プツプツとよく切れる10割そばでしたけど。
- 「山下」さんのところでは、どのようにして麺を作っていたのですか?
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モーターやベルトコンベアーなどが付いた大きな機械が店の中にあって、その機械の入り口に小麦粉などの材料を入れて麺を作っていました。
材料を入れてから、どれくらいの時間が経てばそうなるのかは分かりませんが、出口から麺がところてんのように流れ出てきて、ある程度の長さまで出てくると店の人が手でちぎっていました。
- 麺を手でちぎっていたのですか?
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ちぎるというか、機械の出口のところに刃があって、それに麺を当てて切る感じだったと思います。ちぎった麺は一玉ずつ諸蓋に並べていました。
だいたい午前中の早い時間に粉を持って行って、夕方頃に麺を取りに行きました。家に持って帰った麺は、まず仏壇にお供えしました。自宅は新家だったので、仏壇には仏さんが入っていなかったのですが(笑)。
うどん入りのお重を持って帰るのが法事の恒例
- 自宅以外でうどんを食べる機会はありましたか?
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父の里が(高松市)亀田にありましたが、法事でそこに行くと、祖父や祖母が生地から作った手作りのうどんが食べられました。
うどんもしっぽくではなくて、板かま(かまぼこ)や練り物の天ぷらが入った、見た目に綺麗なものでした。しっぽくと違い、白い麺が丼からよく見えてとても新鮮だったのを憶えています。うどんと一緒に赤飯やバラ寿司も出ました。
法事に行くと、余った麺や御飯類はいつもお重に入れて家に持って帰りました。残り物を持って帰るのではなく、お土産用に多く作っていたのです。当時は法事に出掛けると、お重のお土産が恒例でした。うどんは必ず入っていましたね。