香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

坂出市文京町・昭和8年生まれの男性の証言

坂出のうどん屋も様変わりした(坂出の老舗「下川サイクル」の二代目下川一雄さんと三代目の息子さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 295
  • 2019.07.08

こんまい時は「ぴっぴ食べるか?」て親に言われよった

 讃岐言葉でうどんは「ぴっぴ」言いよった。わっしゃ、こんまい時は「ぴっぴ食べるか?」て親に言われよった。ちっちゃい時、幼稚園や行きよるぐらいの時やわな。大東亜戦争の前頃はよう言よったな。

 戦争前かその頃、坂出で有名なうどん屋さん言うたら、そこの「日の出」さんとな、大黒町通りに「塩飽屋」いうんがあったんや。元の中国銀行があった向かいでな。そこによううどん食べに行ったり、うどん玉買いに行たりしよった。坂出では有名なかったで。

 親がうどん玉買うて来とったら、炊いてもらわんと湯でちょとそぐいで(さばいて)すぐうどん鉢に入れて、醤油かけて味の素振りかけて、ほいでこう混ぜて食べよった。子供の時はそういうのがようあったなあ。汁もなんちゃ要らなんだわな。ほいだけど美味しかったで。今でも美味しいと思うけどな。母親がうどん炊いてくれるいうたら、ダシ入れて、イリコのダシでな。ほいでうどんしょったわな。

 戦後、うどんを食べ出したいうんは、やっぱりちょっと世の中が落ち着いてからやろと思うで。今頃になって「うどん、うどん」言よるけど、昔はそなにがいに(たいそうに)「うどん、うどん」とは言よらなんだで。そりゃ、子供の時から「ぴっぴ、ぴっぴ」言いよったんじゃきに食べるのは食べよったんやろけどな、うどんいうもんはそなに毎日毎日は食べなんだで。やっぱり、ちょいちょいやったわな。

田舎の法事に行ったらすぐうどん

 法事の時はうどんは出よったわな。必ず出よったわ。ほいで今みたいに商売でやっとる葬儀社いうんやなかったけんな。葬式や法事はみんな個々個々の家でしょったけんな。いや、うちでは法事したことないで。呼ばれては行たことあるけどな。法事があったんは善通寺。田舎の家やったら、わりかし広いけんな。20人や30人や来たって座れるわな。障子全部外してしもて、座敷広~にして。おじゅっさん来る前に行たら、腹が減っとたら「うどんでも食べな」言うてすぐうどんくれよったわな。田舎の方に行ったらすぐうどん出してくれよったわな。そらもう昔からやわな。

 お膳の時にはうどんはあんまり付いとらんで。うどんいうのはもう、最初行った時に「あ~うどんでも食べな」言うて朝くれるやろ。ほんだらそれで終わりで。お膳は仕出し屋から取ったお弁当が出て来たらもうそれで終わりで。帰りはお供え物あげとったら、お供え物分けてくれよったわな。うどん持って帰ったりはない。しょったとこもあるかもわからんけど。私はそいな経験ない。

昭和の店が平成の店に入れ替わった

*ここから息子さん(昭和36年生まれ)の話。

 この辺のうどん屋いうたら、すぐそこ「べべや」(同じ坂出学園通りの着物と古布の店)あるやろ、あっこのお父さんが宮川さん言うて、うどん屋しょった。40年以上前(昭和50年代)の話やわ。セルフの「宮川」いうて、個人でセルフはあそこが初めやったな。その場所は「宮川」の前か後にもちょっとの間「入船」いううどん屋になったりな。

 子供の頃は八百屋さんにうどん玉買いに行きよったね。商店街入ってすぐのとこ「多田羅」いう八百屋があって、セイロでうどん置いてあった。「兵郷」のうどんを置いとったと思う。「兵郷」の息子さんが同級生で、おばさんが多田羅の八百屋にうどん玉を持って来よったん見たことある。

 あと、「池田製麺所」いうんがあったかな。うちのすぐ近所に「鎌田食堂」いうんがあってな、そこは製麺所ではないんやけど、食堂やけん「池田製麺所」からうどん玉をセイロで持って来てもろて、そこでかけうどんとかきつねうどんとかにして食べさしてくれよった。今みたいにうどん屋よけ(たくさん)なかったけに、市役所の方からもいっぱい食べに来よったし、丼もんやあいなんもあってな。けっこうおいしかったけん、僕やいまだにあのうどん食べたいな思う時ある。

 今? 今は全部ない。廃業しました。「鎌田食堂」は先に廃業したわ。25年くらい前にはもうなかったかな。「池田製麺所」が辞めたんは10年くらい前ちゃうんかな。国時の燃料屋の向いの辺や。道挟んだ東側な。今はもう空き地で、道が広がるけん拡張の範囲で立ち退きになってな。それから市役所の真北に「家康」いううどん屋もあったけど、そこも辞めたわ。個人でしよる店は減ってきよるわな。「兵郷」さんも閉めたし、「上原」もとうに閉めたわ。やっぱり変わってきよるんやな、時代とともにな。古い店がなくなって新しい店が次々出てきて。まあ入れ替わりやな。

●編集部より…久しぶりに戦前生まれのご長老からお話をいただきました。昔あった店の名前もたくさん出てきましたので、ぜひ歴史に残しておきたいと思います。また、息子さんからは「坂出では宮川が個人のセルフの走りだった」との証言も頂きました。香川県下の大衆セルフの発祥については「うちが発祥だ」という店が数軒あるようですが(笑)、確定は非常に困難なので、その数軒の中に「坂出の宮川」も入れておきましょう。なお、聞き手の森口さんからほぼ方言のままの原稿を頂きましたが、難解なものがありましたらお近くの筋金入りの讃岐人に聞いていただければ幸いです(笑)。

【取材こぼれ話】

 本企画の趣旨とは異なりますが、戦前生まれの下川一雄さんからうどんの話とは別に戦時中のいろんな体験話を頂きました。本編より長いですが(笑)、せっかくですので「戦時中のこぼれ話」として併載しておきたいと思います。

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親父は戦時中にえらい目しよった

 うちの店はな昭和4年から親父が自転車屋を始めとん。私は昭和8年に生まれて、ここの幼稚園行って、ほいで附属の小学校行きよったんや。「香川県女子師範学校附属尋常小学校」言いよったんや。今は普通科の高等学校になっとるけど、あそこに昔は「香川県女子師範学校」があって、その系列で「附属尋常小学校」いうのがあったんや。男女共学ではなくて、女子は女子、男子は男子で分けられとった。

 小学校入った時には尋常小学校やったんが、日本が戦争しよる最中やったから6年生卒業する時は「国民学校」に変わったんやがな。「附属国民学校」になって、あの「教育勅語」いうんを絶対に覚えないかんいうて、できんもんは放課後残される。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト(~略~)明治二十三年十月三十日 御名御璽」…小学校の時に覚えとったんが今は所々飛んどるけど、当時はぜ~んぶ覚えなんだら帰らしてくれなんだ。

 昭和12年に第1回の支那事変が勃発した時に、うちの親父に召集が来てな、ほんで「輜重隊(しちょうたい)」いうて、歩兵の後から馬を追うて弾薬を輸送する部隊に行た。坂出から軍需品やそいなものを積んで行く御用船(ごようせん)が出よったんです。1万トンから2万トンくらいある船が着きよったと思います。大~きな船やったから。その船を昔は御用船言よったんや。ほんでそこへ兵隊さんが集結して、坂出の港から出発しよったん。町内会の婦人の人が「大日本帝国婦人会」いうタスキ掛けてな、ほいでお餅やまんじゅうやお寿司やこっさえて歓迎してあげよった。出征に行く前にな。兵隊さんが皆、待機しとるとこであげよった。ほいで親父もそこから戦争に行たんじゃ。私はその時4歳かそこらやったけど、港まで見送りに行ったわな。

 それから1年して、凱旋でそこの坂出の港へ帰って来たけに、また迎えに行ったんや。あそこは昔は「臨港(りんこう)道路」言うて、軍事道路やったんや。今でも行ったらわかるけど、赤灯台があるとこに大きな倉庫があるわな。あれ、軍需品入れよったんや。ほんであの広い軍事道路が付いたんやが。

 それからな、親父が戦争行って戻って来て自分とこで仕事しよったら、今度は「徴用令」いうんが来よったん。「出て来なさい。国のために協力してください」言うて、政府が直轄で引くんやがな。ほんで、神戸の三菱ドックへ行って半年か1年くらい務めた。大きな船や軍艦やドイツの潜水艦やよけ入ってきて、そいなんを修理しょったんや。親父は須磨の寮でおって、こっちからよう母親が「おやき」やなんじゃかんじゃこっさえて送ってあげよったん見たことある。木のトランクこっさえてもろて、そん中にこんまいまんまるい「おやき」やなんや食べるもん入れて、ほんでよう送ってあげよった覚えはある。うどんは送ってあげよった覚えはない。

 ほんでうちの自転車は母親がしよったんやけど、向こうで親父の体が悪うなって、一旦うち帰って来たんや。ほんだらまた招集が来て、今度は長野県行ったんや。「農耕勤務隊」いうてな、鉄砲持たん兵隊や。イモやササゲやそいなもんを作じょったんや。農作物作っじょったん。長野県の方でな。ほいで終戦になったんやがな。そら親父はえらい(大変な)目したで。

電気で作った「ぬかパン」

 戦争中や終戦の頃は、うどんやいうんは食べてなかったな。大東亜戦争が始まったんが昭和16年で、始まった頃からだんだん食べるもんがなくなってきてな。激しかったで。豆腐豆(とうふまめ/大豆)にな、何を入れとったんかいな? 粟みたいなん入れてな、昼の弁当で食べたことある。米のご飯やうどんやいうんは全然なかった。ほれからサツマイモな、これが主食くらいやったな。サツマイモはそこそこ作っとったけんな。一番作りやすかったんやろな。今ちょっとテレビや雑誌見たりしよったら、あのイモの蔓とか葉っぱに栄養があるんやとな。それを健康食品言い出しとるわな。戦時中はイモの葉や蔓や食べよったですよ。イモも食べたけど、その蔓や葉っぱも食べよった。そいなもん食べなんだら食べるもんがないんや。

 それと、「ぬかパン」とか「電気パン」いうん自分とこでこっさいて(こしらえて)食べたりな。パン屋さん行ったってパンないのに。うどん粉がどうにかこうにかあったけど、ぬかがあったからそれをパンにして食べよったんや。小学校の1年生か2年生くらいの時(昭和14、15年頃)や。こんな(両手で10×15センチくらいの枠を作る)木の箱こっさえとってな、ほいでうどん粉とぬか入れて混ぜて、そこに重曹ちょっと入れるん。重曹入れたら膨らんで大きいなる。ほいで木の箱の両端にブリキの極板をこう入れる。横に差し込むん。ほいでプラスとマイナスの電線引っ張って、電気(コンセント)突っ込んどったら、もう10分か15分したらバア~っと膨れてパンになるん。四角い角パンができよったん。このくらい(親指と中指を10センチくらい広げて)の高さのな。電気で作るけん「電気パン」言うて、まあ勝手に私が言よるけどな。作り方は友達に聞いたかなんかやろな。そなもんは店に売っじょらんけん。ほいなんでようこっさえて食べたで。まあ食べるもんがなかったきにな。おやつじゃない。そりゃ主食じゃが。お米がないのに。うどん粉はどこで買うて来よったんかしゃん、親が工面してくれよったわな。

 その「電気パン」というか「ぬかパン」は、親が作ったりはせななんだ。わしが「ぬかパン作るけに、ぬか買うてきてくれ」言うて頼んだことはあったけどな。製米所や行てもろて来よったんかもわからんな。製米所はな、この向こうの方に稲田さんいう人が精米所しよったことあるんや。もうおじいさんでな。機械で餅つく臼みたいなんがあって、ほいで木でポンポンポンポンついてな、精米しょったんや。今みたいに日清製粉みたいな大きな会社がなかったがな。ほなけど、そんなこんまいとこが米ついたり粉作ったりしよったんやろ。粉にするんはうどん粉やろな。こんな(両腕で輪を作る)石のローラーじゃわな。

高校を出て自転車屋の跡継ぎに

 終戦の年の昭和20年に小学校卒業して、その4月に坂出の「工業」入ったんや。坂出工業高等学校へ。中学校ないんや。小学校からいきなり高等学校や。13歳やなあ。小学校6年卒業したら、試験受けてすぐに工業高校入ったんや。工業入った時はまだ戦争中やがな。8月15日が終戦やきに。ほいで勉強せんとな、滑走路作りに行きよった。

 飯山町の坂元の府中線の道路の右と左の田んぼやったとこに滑走路ができよったん。軍隊が出て来て、兵隊さんが飯野山の山土をトロッコに積んでいっぱい田んぼのとこへ広げて、田んぼを全部平らにして滑走路こっさえよった。ほいで、その上を我々はローラーで引っ張っじょった。中の土を締めよったんや。大きな機関車みたいな土締めるローラーも来とったけど、燃料がないきに動かんのやが(笑)。ほいで学生さんが皆、綱引っ張ってローラーでがいに(強く)締めよったんやな。ほいでそこへ松の木の枝をよおけ兵隊さんが切って来て、こう並べよったん。敵機からわかったらいかんから、上から見たら滑走路に見えんように、田んぼとか林に見えるようにこう偽造しよったん。

 それから高校おりて、半年は日清製粉に「鉄鋼部の修理部に来てくれ」言われて半年くらい行たかな。ほいだけど親父が「自転車屋、跡継いでくれなんだら困るきに、もう辞めてくれ」言うて、日清製粉は半年くらい行て辞めた。ほいからちょっとの間、自転車の問屋さん行きよったことがある。セールスでな。1年くらい住み込みで行たことある。まあそいなとこ行っとったけに、三豊の方もよけ行ったし、琴平の方のも行た。昔の大きな自転車「運搬車」いうんが出よったわ。大きなタイヤ付いとる米俵一斗付けたりなんかするような自転車。ものすごしっかりしとった。オートバイみたいな自転車やな。エンジンが付いとらんだけじゃ。バイクのようなタイヤが付いとんじゃ。昭和20年以後、終戦後にそいなんがよう流行ったん。もう今出とらんけどな。

 そら修理もしよるがな。その頃はそなにあのサラ(新しいの)ばっかりはよう売れなんだけんな。高いけんな。ほいなけに、お客さんが修理してくれ言うたら、パンクも貼ってあげたり。タイヤも換えたり。昔はサラの自転車売るいうたら「六台箱」いうて木の枠に6台ずつ入ったんが来てな、部品は「部品箱」で別に来て、バラバラなんをうちで組み立てよったんや。その関係でな、組み立て競技会ちゅうんがようあったんや。私、香川県1位になった。48分50秒で組み立てたんや。それがトップやったんや。ほいで「下川さんおめでとう、まああんたの組み立て方はものすごアイデアがあって素晴らしかった」ってから見よった人に褒められた。道具が宙にこう飛んだ言うんやけん。「ニ丁拳銃みたいな感じでクルっと回って、そのジェスチャーがものすごよかった」言うてな、はっはっは~(笑)、褒めてくれたことがあるん。昭和53年ですが。表彰状もろとんがうちにある。第1位いうて。あはははは~。そいなけん、親父と私と二人でな、私が組み立てる調整しとったら親父がリーム(車輪)の振り取ってな、こいなとこのネジを一つ一つ回してな。ほんできちっとできたら私が組み立てていきよったんや。ほいなけん、もう昔は手慣れたもんやったわな。

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●編集部より…という下川翁のお話でした。今、戦争の記憶として公に残されようとしているのは「高松空襲の記憶を語り継ごう」等のピンポイントの話がほとんどで、こういうご年配の方々の頭に中に数え切れないほどある戦時中の記憶はほとんど残されないまま消えつつあります。「讃岐うどん未来遺産プロジェクト」は「讃岐うどんの過去のシーンの発掘」が主旨ですから、それ以外のテーマについては集めようとすると切りがないので別のプロジェクトに委ねざるを得ませんが、とりあえず今回は昭和の時代の「こぼれ話」ということでご紹介させていただきました。証言、ありがとうございました。

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